7年前に来日し、少し福島訛りの日本語、英語、ネパール語、ヒンディー語の4か国語を操るカタリ・ビシャル君。将来は国際的な仕事に就きたいと、この春から東京の大学で学んでいます。高校生のときから、国際的な活動などに積極的に参加していたビシャル君。そうした経験を通して得たものは、どんなことだったのか聞きました。
―ネパールのご出身と聞きましたが、どのような経緯で、いつ日本に来たのですか。
ビシャル君:もともと両親は日本でインド料理店をやっていて、自分はネパールで祖母と妹たちと暮らしていました。父親が、子どもたちに英語を話せるようになってほしいと考えていたことと、ネパール国内で反体制派の活動が盛んになって治安が悪化したこともあって、7歳から5年間、インドに留学して勉強していました。それで、ヒンディー語と英語を話せるようになりました。日本に来たのはそのあと13歳ぐらいの時、2010年の10月なんですが、ビザの発行条件が厳しくなるという時で、日本の永住権を得るために、とりあえず1年のつもりで来たんです。
―1年のつもりが、もう6年以上も日本に住んでいるわけですが、日本にとどまろうと思ったのはどうしてですか。
ビシャル君:2010年の10月に来日して、翌年の2011年には東日本大震災がありました。それで、やっぱり家族と離れて暮らすことが心配だったので、そのまま日本に残ることにしました。それと、日本では小学6年生に編入したんですけど、だんだん日本語が話せるようになってきていて、それならこのまま日本にいて勉強してもいいかなと思いました。
―来日してすぐに、震災を経験されたのですね。日本の小学校にはすぐになじめましたか。
ビシャル君:いいえ。ネパール人も、日本人と同じでシャイなところがあって、自分は日本語が話せないし、まわりの子は英語が話せないし、コミュニケーションが取れなかったので、友達というより、知り合いぐらいしかできませんでした。4歳か5歳くらいの時に1か月くらい東京にいたことがあったので、日本に行くことは新鮮だったし、学校も最初は楽しみだったんですけど、一人でぽつんといると、ネパールに帰りたいと思うこともありましたね。だけど、国語の授業の時間に外部の先生から日本語を教えてもらって、だんだん日本語が話せるようになってきて、スポーツも好きなのでそういう交流もあって、まわりの子とだんだん仲良くなって、楽しくなってきました。
―せっかく仲良くなったのに、すぐに卒業でさびしくありませんでしたか。
ビシャル君:同じ中学に行く子が多かったので、それはありませんでした。先生方が心配したのか、中学では担任の先生が英語の先生だったんですけど、その頃にはもう日本語ペラペラになってました(笑)。中学校では3年間サッカー部で、高校でも続けたくて、サッカーが強い高校へ進学しました。高校でもサッカー部に入って。でも、あとで後悔することになるんですけどね…
―強豪校へ進めたのに、サッカー部に入ったことを後悔??
ビシャル君:高校では、サッカーもやりたかったんですが、留学もしたかったんです。それで、夏休みにオーストラリアに語学留学に行ったんですけど、強豪校だったから、夏休みにずっと部活に出ないことを変な目で見られて。サッカーは大学でもできるから、高校では留学に力を入れようかなと思って、サッカー部はやめてしまいました。辞めてから1年くらいは、仲間が試合に出ている姿を見ると、自分も続けていたら…と考えてしまいましたが、気持ちを切り替えて。そして気づいたら書道部に入れられていました(笑)もともと絵を描くのが好きだったのと、部員が一人しかいなかったこともあって、いつの間にか自分も部員になってました(笑)賞も2回もらったことがあります。高校3年生の時には、書の甲子園という大会で秀作賞に選ばれて、大阪で授賞式に出ました。
―賞までとってしまうなんて、センスがあるんですね。そして、サッカー部を辞めた後しっかり気持ちを切り替えて留学に力を入れようと思えるところは、すごく前向きなんですね。
ビシャル君:前向き、ポジティブな性格ですね。2年生の夏に、TOMODACHIソフトバンクのプログラム(※1)の選考に受かって、アメリカに行くことになりました。そのオリエンテーションでBFFの加藤さんと知り合って、アメリカでも話を聞いてもらったり日本に帰ってきてからも心配して話を聞いてくれたりしました。それで、事務所にも行ってみたいと思って訪ねたのが、BFFとの最初のかかわりです。
※1被災地の高校生をアメリカに招待し、問題解決型のワークショップを通して地域に貢献する方法などを学ぶ。
―事務所に来るようになってからは、どんな活動をしていたのですか。
ビシャル君:ハイスクールピッチ(※2)で発表したり、ソラトブクルマ(※3)に参加したり、小さなイベントにもいろいろ参加しました。その中でも印象に残っているのは、2年と3年の時に参加したロジックモデル合宿(※4)です。初めて参加した2年の時に、ほかの人だったら多分、泣いているだろうなというくらい、きつく注意されました。泣きはしなかったですけどね。その時はアメリカから帰ってきたばかりで、いろんな課題を見つけてはいたんですけど、1つに絞れなくて、実現可能性のないプランを出して、伴場さん(BFF代表)に「これは全然ロジックじゃない」と言われてしまいました。合宿は1泊2日で、2日目にはみんなの前でプレゼンしなくてはならなかったのに、初日に、1日かけて考えたことを一気に「×」にされてしまって、結局まとまりませんでした。みんなの前でかなり強く注意されたので、落ち込んで、考えるのがよけいに難しくなってしまって。だけど、その時はまだ2年生だったし、これからもこの活動にかかわり続けていきたいと思っていたから、「これから頑張ろう」って思いました。
※2・3 シリーズ第1回さやさんと愛希さんのインタビューを参照してください。
※4 高校生が自ら行うプロジェクトで、目的達成までの過程を論理的に考える合宿。
―落ち込むほど注意されたのに、もっと頑張ろうと思えるとは、やっぱり前向きですね。その先も活動にかかわり続けたいと思ったのはどうしてですか。
ビシャル君:自分の決意で参加したものだし、その時にまとまっていなかった自分のやりたいことを実現するきっかけにしたかったんです。例えばですが、ネパールでも日本の震災の直後に大地震があったので、ネパールのために募金活動をするとか、英語が苦手な日本人に英語を教えるとか、あとは郡山にひまわりを植えるとか。ひまわりはセシウムを吸収するというし、明るい花だから見ていて気分も良いじゃないですか。そのほかにも、もっと新しいアイデアもほしいと思ったし。それと、何でもオープンに話せる場所だと思ったからです。それまでは、サッカーつながりとかで友達はいたけど、深くないっていうか、なんでも話せるような友達は作ったことがなかったんです。アメリカのプログラムに参加した時に、グループで3週間過ごしたので、メンバーといろんな話をして、そこで知り合った子の中にBFFで活動していた子も何人かいたんですよ。みんな自分が興味のあることをやっていて、向こうからもいろいろ相談してくれるし、「この人だったらなんでも話せるな」と思えました。だから、こういう仲間がいる場では、自分のやりたいことも話せるし、共感してもらえる。もし興味がなくても、聞くことが大事だと思います!学校の友達は聞いてくれません(笑)
―そういう仲間、友達ができたことは大きな財産ですね。課題だった「ロジカルに考える」力は、どのようにして磨いていったのですか。
ビシャル君:いろんなプログラムに積極的に参加する中で、自然と身についていったと思います。最初に合宿に参加した時は、ただやりたいことをまとめて「やりたい!」って言っていただけだったんですけど、やりたいこと≠ロジカルじゃないとわかったので、考え方が変わりました。やりたいことがあったら、まず最初にゴールを考えて、そこに至るステップを考えていったら、ちゃんとしたプランが作れるようになりました。合宿のあとに、JISPという団体が行った、「ユースリーダーシッププログラム」というのに参加しました。JISPというのは、震災の時に東北で心のケアなどの支援を行っていたイスラエルの団体で、ネパールの大地震でも仮設住宅を作る支援をしていて、そのプログラムではネパールから5人、日本から5人の学生が参加して、震災の経験を共有したり、心のケアを学んだりしました。そこでネパールのために募金を集めるという新しいアクションプランを考えて、親が経営する店に募金箱を置いたり、ポスターを作ったりして本格的にやり始めて、実際に行動に移すことは大事だなと思いました。
―最初は失敗してしまったけど、その反省をすぐに別の機会に生かすことができたんですね。3年生の時の2回目のロジックモデル合宿では、1度目のリベンジはできましたか。
ビシャル君:実は負けず嫌いなところもあるので、ほかの人には負けたくない、ほかの人にできることは俺にもできる!と思って、今回こそはちゃんとしたプログラムを立てようと決意して参加しました。「英会話教室を提供しよう」ということを考えたんですけど、日本人の多くは英語が難しいと思っているけど、小学校でも必修化されるし、いつかは英語を話せなくては生きていけない国になると思うんです。その時に学校に通っている人はいいけど、今、学生の人たちは、その時にはもう社会に出てしまっているから、そういう人たちのために英語を教えようと思いました。2020年にはオリンピックもあってたくさんの外国の人が日本に来ると思うけど、日本人って優しいから、外国の人に何か聞かれて答えられなかったら、後悔するというか、そういう気持ちになると思うんです。せめて日常会話ができれば、そういう思いをしなくていいから、みんなで英語で遊ぼうというプロジェクトを立てました。それでゲームをして遊びながら英語を学ぶというプランを発表したら、そのプレゼンがロジカルに考えられていると、伴場さんにすごくほめられました!まわりのスタッフの人たちにも、「何かつっこみたいけどできない、悔しい!」と言っているのを聞いて、自分が成長したことを認めてもらったんだなと、すごくうれしかったです!その時に、1年目の自分と同じような子がいたので手伝ってあげたら、その子の考えもまとまって、教える側にまで成長したのかと言ってもらえてうれしかったですね。
―1年でまわりの人も驚くくらい成長したんですね。将来も、日本でそういった国際的なことにかかわっていきたいと考えていますか。
ビシャル君:貧困問題に興味があるので、将来は国際機関で、途上国で活動したいと考えています。なにも専門がないので、スポーツや日本文化なども学ばなくてはいけないかなあと思っていますが、4か国語を話せるのは強みだと言ってくれる人もいるので、それを生かせたらいいなと思います。たくさんのプログラム、活動に参加すると、いろんな大人がいて、こういう人になりたいと思う人がたくさんいて、決めきれないんです。あれもやりたい、これもやりたいって思うから、1つに決めたくなくて、広くいろんなことをやっていきたいなと思っています。大学では、第2外国語でフランス語を履修しているんですが、そのほかにスペイン語もできるようになりたいから、最終的には6か国語、最低でも5か国語は話せるようになりたいと思っています!期待してくれる人がいるし、言語を覚えるのは好きなので。
―最後に、後輩の高校生のみんなにメッセージをお願いします。
ビシャル君:誰でもやりたいことは必ずあると思うけど、普通に生活しているだけでは気づかないこともあるかもしれないから、早めにやりたいことを見つけることは大事だと思います。自分は高校2年生の時に見つけて、いろんな活動をして選択肢が広がったけど、それでも遅い、1年生の時に見つけていたらまた違ったかもしれないとも思います。とにかくいろんなことに参加してみる、自分から動き出すことが大事だと思います。シャイな人が多いから、やりたいことが漠然としていると、気が引けてしまうこともありますよね、英語学習にしてもそうです。だけど、だからこそ、まず一歩を踏み出すことが大事だと思います。
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■ 編集後記
「すごくおしゃべりでうるさいくらい」と自分でいうビシャル君は、話しているうちにだんだん訛りが強くなってきて、ネパール人だけど、間違いなく福島県人でもあるんだなぁと実感しました。そして、どんなに怒られてもへこたれない、失敗してもあきらめずにまた挑戦するという姿勢は、単に前向きな性格というだけではなく、明確に「自分のやりたいこと」をわかっていて、それを必ずやり遂げるんだという強い意志に支えられているのだとわかりました。 (I.S)
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