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【ボランティアさんインタビュー③】蛭田さん

―震災時はどうされていましたか?

浪江の家で洗濯物を取り込んでいました。あまりの揺れに立ってられず、柱につかまっているのがやっとで、地震が収まってから家に入ったら、物は倒れ、食器は割れ、どこからかたせばいいかわからないという状態でした。

その時点では原発のことは何も分かりませんでした。

家の中は片づけられなかったので、その日は車中泊することにしました。

翌日家を片付けようと思ったら、朝7時ごろ町内放送で避難の指示があり、津島小学校へ避難しました。避難は2,3日で終わるものと思っていたので、着替えもほとんど持たず、財布の中身もほとんど持たずという状態で。

津島小学校に避難したものの、避難した次の日(13日)の夕方には半分くらいの人たちがいなくなっていました。しかし、私たちのところには何も情報がなかったので、どうして人がいないのか分かりませんでした。やっと情報が入ったら、津島も線量が高いということで、多くの人が避難していました。

翌日(14日)から、福島市の避難所に半月くらいを過ごしました。

避難所は断水していて、ボランティアの方が水を汲んでいてくれ、食事も温かいもの、お味噌汁などをいただき、暖房もつけてくれました。その時はボランティアの皆さんに大変お世話になりました。

その後、2012年2月まで福島市で生活しました。

―BFFとの出会いについて教えてください。

相馬に来てもやることがなく、時間を持て余していました。そんな中ですでに相馬基地でボランティアをしていた久米さんに誘われました。自分が福島市に避難していた時にお世話になった分、相馬基地で恩返しがしたいと思い、2012年5月頃から相馬基地でのボランティアに参加するようになりました。

―相馬基地でボランティアをして、感じたことはありますか。

最初の頃は物資もいっぱいあって、もらいに来るみなさんも喜んでいたし、それを見て自分もうれしかったし、楽しかったです。自分がみなさんの力になれたということを実感した。また、いろんな方とお話できて、自分自身も勉強できたと思います。

 ―ボランティアをしていて、今と前の違いがありますか。

震災当初はみんな喜んでもらっていたけど、今は落ち着いた感じでもらっていく人が多く、ありがとうの一言がなくなってしまっていると感じることが多くなりました。最近は物資がなくてもあまり困ったという感じがしなくなっています。

―相馬基地が閉所することについて、どう思われますか。

閉所になるということはしょうがないと思うが、ここに来るのが楽しかったので残念な気持ちもあります。私自身も若さをもらいにここに来ていました。相馬基地が終わってしまうので、今後は自分の好きなこと、趣味に時間を使いたいです。浪江にいた頃よくやっていた、紙を使った人形作りなど手先でいろいろ作ることが得意なので、それをやりたいと思っています。

一方で、体を動かすものも、近場でやっていれば参加していきたい。健康体操が近くにやっているので、まずはそれに参加したい。

―今後のBFFに期待することはありますか。

相馬基地でのボランティアは人のためでもあったけど、自分のためにもなりました。失ったもの以上に得たものが多かったです。たくさんの経験、新たな出逢いがありました。私は相馬基地に来て、嫌だと思ったことは一度もなかったし、本当に楽しく、感謝の気持ちでいっぱいです。 いろんなところでボランティアをしている人がたくさんいますが、自分の体も大切にして頑張ってほしいと思っています。

一般社団法人 Bridge for Fukushima
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