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【第3回:西村亮哉(にしむらりょうや)】

 

高校卒業から1年を経て、自分の進む道を決め、東京で夢に向かって歩き始めた西村亮哉くん。高校時代に人一倍多くのことを経験したからこそ、大きな決断ができたのだといいます。BFF代表の伴場さんをして、「ぴかいちの情熱と行動力がある!」と言わしめ、後輩たちからも慕われる、周りからの人望も厚い彼は、どんなことを考え、どんな気持ちで一歩を踏み出したのでしょうか。

―高校生の時には、どのような活動に携わっていたのですか。

亮哉:BFFとの最初のかかわりは、日中高校生の交流事業「あいでみ」です。学校でポスターを見て、行ってみたいと思う気持ちと、「中国かぁ…」という気持ちで参加を決めかねていました。そんな時、別の団体が行った、東北の高校生が集まるサミットに参加したんですけど、そこで初めて、自分が外からは「東北の高校生」という風に見られているんだということを自覚しました。福島は震災や原発事故で大きな被害があったけど、自分が沿岸部に住んでいたわけでもないし、直接被害を受けたわけでもない。テレビでしか見たことがなくて、現実味がなかったんです。だけど、そのサミットで、家や家族を失くした子と初めて出会って、「あの震災は本当だったんだ…」と思いました。自分よりも辛い経験をした子たちが、自分より頑張っている、地元の力になろうとしているのに、自分が何もしていないということにすごく違和感を覚えました。それで、その場で父に電話をして、あいでみに参加するということを伝えました。

―「福島の高校生」としてあいでみに参加してみて、どうでしたか。

亮哉:自分のことばで、自分たちの地元について語らなければならない初めての経験で、福島や中国のことについて勉強して臨みました。参加してみて感じたのは、正直、くやしいという気持ちでした。自分は参加するだけなのに、高校生だけでプロジェクトを組み立てて、こんなことができてしまうんだと。この経験が、高校生でも学校と家との往復だけじゃなくて、何でもできるんだと思うきっかけになりました。

―多くの高校生が、勉強にしても部活にしても、学校の中で生活が完結してしまうと思うのですが、それでは物足りないという気持ちがあったのですか。

亮哉:「何かやりたい」という好奇心は、もともと強い方だったと思います。いろんなことにチャレンジしたいんだけど、何に専念したらいいかわからないというような状況だったと思います。学校では生徒会長も経験しましたし、バンド活動にも力を入れて、ライブ活動もしていました。NLAという、音楽イベントを通じて、高校生がやりたいことを探したり居場所をさがしたりする団体の福島代表も務めました。東北復興新聞という媒体で9か月に渡って7回、記事の連載もしました。

―分野を問わず、いろんなことに挑戦したのですね。将来のこともふくめて、やりたいことを模索していたのでしょうか。

亮哉:将来の夢は、小さいころからの変遷を言うと、忍者→マジシャン→指揮者…でした。ずっと音楽をやっていたので、音楽をやりたいと思ったのですが、高校1年生の初めのほうに、ピアノの先生に、「本当に指揮者になりたいのなら、これから音楽だけの生活をしなきゃいけない。君のやりたいことは、本当に音楽だけなのか」と言われて、そこで音楽の道は一度あきらめました。そのあとBFFで社会起業家と出会ってからは、自分の中で社会起業家ブームが来ました(笑)「かっこいい大人の話を聞く会」や「ソラトブクルマ」といったイベントを企画して、作家の人やカメラマン、住職など、いろんな大人の人とのふれあいを通して、自分自身を見つめるということをやりました。当時の問題意識として、「学校と家の往復だけでは、自分のやりたいことがわかるわけがない」ということがありました。自分がふれたことのある大人になりたいと思うのは当たり前で、だから学校の先生になりたいと思う高校生も多いわけで、いろんな人と出会うことは大切だと思ったんです。だけど、こうした経験を通して、自分は社会起業家にはなれないなと思いました。解決したいと思う課題がないんです。イベントで出会った社会起業家の人たちは、辛いことだったり悲しいことだったり、そういう原体験がエネルギーになって活動していました。その課題は一生をかけて解決していくもので。その点、自分にはそういう強烈な体験がないんです。恵まれすぎてしまっていたのかもしれませんが、自分には出来ない、と最終的には思ってしまいました。

―憧れたものに、自分はなれないと結論が出てしまって、そこからどうやって、自らの進む道を見出したのですか。

亮哉:振り返ってみたら、どのイベント・活動にも、ギターを持って行っていて、結局、最後はみんなの前で、ギター弾いて歌ってたんですよね。音楽は、自分が一番長くやってきたもので、やっていて一番楽しいもので、自分自身が救われてきたものでした。音楽でプロになりたい、歌を作って、多くの人の人生に寄り添っていきたいと思いました。そう気づいたのも、音楽以外の様々な活動をしていたからだと思います。音楽以外のことを一生懸命やったからこそ、音楽に戻ってきたんだと思います。社会起業家の人たちと出会って、憧れるけれど、自分がそれになりたいとは思えなかったのですが、ライブハウスでステージに立っている先輩の姿を見たとき、かっこいい、自分もそこに立ちたいと思ったんです。

―進学については、どう考えましたか。

亮哉:詩を学びたいと思って、大学を目指しました。高校3年生の時にはほとんど勉強していなかったので、一年、浪人させてもらって。結果、受かった大学もあったのですが、行きたかった大学には縁がなくて。与えられた選択肢の中で、どうベストな選択をするかと考えたときに、自分が学びたいことは、大学に行かなくても学べるんじゃないかと思いました。中には、大学の4年間をモラトリアムととらえて、そこでやりたいことを探すという人もいると思うんですけど、自分の場合は、それはもう高校生の時にやってしまたんですよね。だから、進学しないという道を選びました。

―いろんな経験をしたからこそ、できた決断だったんですね。だけど、ちょっぴりもったいないな、と思ってしまうのですが。

亮哉:自分でも、そう思ったこともありました。でも、大切なのは、自分が何をやりたいか、自分が幸せかどうかだと思うんです。これは、高校生が参加したプログラムで出会った先輩のことばから得たことなんですけど、人のため、社会のためじゃなく、自分が幸せになるためにどうしたらいいかを考えてもいいんだと気づきました。自分の幸せのためにやっていることが、結果的に人のためになったり社会のためになったりしたら、それは幸運なことです。僕みたいに、積極的に社会的な活動をしている高校生って、周りから過度に期待されてしまうことがあると思うんです。「福島のために何かやってほしい」と言われたら、そうしなきゃいけないんじゃないかと思ってしまうけど、それが若者の重荷になってしまっている部分もあると思います。「ふくしま高校生社会活動コンテスト」というもので「あいでみ」の活動をプレゼンして優秀賞をとって、東大でプレゼンをしたことがあるんですけど、そこで聞いていた人から、「これからも活動に尽力するんでしょ?」と言われました。違うのに、明確な意識をもってやっているわけじゃないのに…。

―それに気が付かずに、「やらなきゃ」と思ってしまうことのほうが多いかもしれませんね。大人たちも、期待が負担になっているかもしれないことを自覚しなくてはいけないですね。そうした自分自身の経験をふまえて、今の高校生に伝えたいことはありますか。

亮哉:うーん…社会問題に興味持ったほうがいいとか、いろんな大人とつながったほうがいいとか、一概に言えないんですよね。無理に社会に目を向ける必要はないし…自分の経験として、1つ間違ったと思うことがあるので、教訓として伝えると、「夢を持つことに執着していた」と思います。「今の高校生には夢がない」とか「夢があるからこそ努力できる、勉強できる」と思っていました。だけど、大切なのは、目の前の一つひとつのことにやりがいや喜びを見つけられるかどうかです。それが誰かのためになったらいいなと思うことから、志は生まれると思います。学校の先生とか家族とか、まわりの人からの期待もあるとは思うけれど、人のためにと言われる中で、自分のためにしてもいいんだよと言ってあげたいです。

―「人に何かを伝える」ことを話すとき、すごく慎重にことばを選んでいるように感じるのですが、そういう意識はしていますか。

亮哉:してます。BFFでの活動を通して実感したことなのですが、どう頑張っても他者には共感できません。共感していると思っても、それは痛みを理解しているのではなくて、他者のことばや経験を通して、自分の中にある「似たようなこと」に寄せて考えているんだと思います。共感しようという姿勢は大切だけど、できないということを理解しておかないと、わかってもいないのにわかっている気になって、相手を傷つけてしまうこともあります。音楽を作る上でも、自分が誰かを理解して、人を救える音楽を作れるのではなくて、聞く人がいい意味で勘違いをして救われるものを作れたらいいなと思います。

―音楽の道に進むということですが、今はどんなことを目標にしていますか。

亮哉:ちゃんとした音源を作りたいです。音楽って一瞬で終わってしまうから、ちゃんとCDを作りたいです。漠然とした理想はあるけれどもそこに至るまでをどうするかとか、音楽で生計を立てるためにはどうするかとか、考えなきゃいけないことはいろいろあるんですけど、歌い続ける以外に方法はありませんね。大学に行かないので、これからは音楽とバイトだけになってしまいます。だから、本を読んだり、映画を見たり、たくさんしなきゃいけないなぁと思います。もちろん、社会問題と関わることをあきらめたわけじゃないですよ。関わる方法はいくらでもあるし、出発点を音楽に決めたということです。どんな形でも、社会課題にはずっと関わっていくと思います。

―最後に、伝えたいことはありますか。

亮哉:音楽の道を選んだのは、高校生の時の社会活動があったからこそです。そこで出会った人たちの人生の中に、伝えたいことばや価値観を見出して、自分で詩も書くようになりました。大人たちからの期待が負担になっていたと言いましたが、そうした学校以外での活動の場が、自分にとっての大切な居場所になっていたことに変わりはありません。

 

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■ 編集後記

すごく話が上手で、1を聞けば10も20も教えてくれるような聡明な人でした。明るく穏やかで気配りもできる、ああ、これは周りの人から慕われるなぁとすぐに分かりました。熱意と行動力に加えて、冷静さも持っているというバランス感覚を失わずに、歩んで行ってほしいなと思いました。人一倍の吸収力を持つ彼が30歳40歳になった時、どれほど大きな人になっているのか想像もつきませんが、きっとみんなの想像を超える、ビッグな大人になっているんだろうと思います。

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